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蜘蛛の糸 [言葉]


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谷川岳


ベテランの弁護士さんとお話する機会があった。
弁護士というのは人間とその社会を、泥沼のような世界を、法律を基準にして考える仕事です。
しかしその前に、その人の精神性の高さ、人格の素晴らしさに私は驚いてしまった。
「人」に対して驚くというのはプロスポーツの超人的な選手くらいしか最近なかったので、この弁護士さんには心底驚いてしまったのだった。




私の目の前にいて話をしているのはただひたすらにその人そのままであって、事柄や物事の把握と理解と判断、受信感度の良さ、論旨の明快さはもちろんのこと、その表現も簡潔達意で夾雑物や装飾というものを全く感じなかった。

穏やかで、話の平易さと明晰さ、話している時の「目の動き」さえそこにまったく嘘を感じず、下品のかけらもない。
「上質な人間そのまま」、そういう方でした。




その人格に触れたことで、弁護士という職業の正義と倫理性、その歴史まで見えてしまったし、そして「人」というものの完成形とはこういう人のことかと、私はそこに荘厳ささえ感じてしまうほどだった。


インテリジェンスと精神的発光、しかもそれが決して目立つことはなくて滲み出ている感じで、改めて弁護士というのは凄いものだなと思った。
こういう人格を備えている人にならなければいけないなと思いました。





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いろいろなお話をしましたが、その中では文学の話もし、その弁護士が引用していたのは芥川龍之介だった。
芥川の遺稿である「或る阿呆の一生」。
初めて生まれた自分の子供についての芥川龍之介の感想。



何の為にこいつも生れてきたのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ

何の為に又こいつも己のようなものを父にする運命を荷ったのだろう




普通の親が初めての子供に持つ感想とは全く違うでしょう。恐ろしいくらいに違う。
普通の親ならこの子の希望、未来を何よりも想うはずだが、芥川はそうではなかった。この冷たさは何だ。
客観的にどこか覚めた目で、泥沼の社会の中で斜めから物事を見ている一人の人間として、子供と言うものを突き放して見ている感じだった。




芥川のパーソナリティはここでは関係ないのでいいのですが、

「この娑婆苦の充ち満ちた世界へ」

というのがこの弁護士との話の中でキーワードだった。
この矛盾に満ちた人間社会。





痛ましくもあり、滑稽でもある、摩訶不思議さの中で人は生きていかなければならないのだということをさらっとお話してくれたのだった。
とても勉強になりました。
泥のような中にある美しきもの、「恒心」、を探しているのが人というもの。






芥川龍之介「蜘蛛の糸」

こわっ!
しかし、これは様々なことが考えられる恐ろしい話だ。

例えば。


考えなしにその糸に頼っていいのですか?


天国から垂れ下がってきた蜘蛛の糸と、その先の天上というのはどうにも軽い夢や希望の「観念」世界であって、地獄というのは私たちが生きている重い「現実」社会のこと。
垂れ下がってきた糸を辿ればここを抜け出してなんとなく天国で幸せになれるような気がするのです。
何とかしてこの苦しみから逃れたい。
この糸を辿って行けば「今ある苦悩はオールOK、リセット、今までのことは無かったこと、全部解決」になるのではないか?


しかしそんなことはない。
垂れた糸を、亡者どもは我こそはと人を蹴落としてまで殺到してきます。
しかし結局その糸は切れてしまう。
その繰り返しが行われてきた。
そして今も。



糸が切れたらどこからともなく新しい糸が垂れてくる。





弁護士さんは「本を読むこと」はとても大事と仰っていました。
基本は読書。いつでもどこでも、読めますからね。


そして物事を考えないと、垂れ下がった糸に飛びつく亡者になってしまう。
亡者は目先の安っぽい事に執着し、物を考えず(または飼い馴らされて思考停止状態でいる)、身勝手で自己中心的なことを基準とする人間のこと。
それは嫌だな。
そこがたとえ地獄であろうと、魂が美しい人間、より善き人でありたいですものね。



人の最大の楽しみは、人を見ること。
自分とは違うもの(あるいは同じもの)をそこに見ているのです。
これは性別も年齢も背景もそれまでの歴史も全く関係なく。

そしてその出会いは実際のものかもしれないし、映画、文学、絵画の向こう側にいる人の場合もある。
やはり人は「人間というもの」を見る、知ることが最大の楽しみなのです。

人が、心の美しい人に出逢いたいと願うのはそういうことでしょう。




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桜とは何でしょう [桜]




先日祖母が亡くなり、親戚と久しぶりに顔を合わせた。
あれだけ親戚が集まるという事も滅多にないわけで、祖母が逢わせてくれたとも言えるのでしょう。


身近な人もいれば懐かしい顔ぶれもある。
年をとったなと感じる人たちもいるし、生まれたばかりの子もいる。

様々な年代があり、そこにはそれぞれの人生があり、しかしルーツは一つに繋がり、一本にまとまっていくという不思議な感じですね。
その一本のルーツの流れに自分を溶かして消して行けるような感覚。



今年もまもなく終わる。
最後の最後に祖母の死があり、この数年自身が考えていたこと、すなわち、
「人が生きていくということ」
を祖母が穏やかに教えてくれたのかなと思っています。







今朝も寒い。
早くも桜が楽しみになってきました。裏山の桜はすでに来春に咲く花のつぼみを小さく作っています。
この数年でこれでもかというくらい桜を眺めて見て来ていろいろ感じ考えたが、
今は静かに遠くから眺められる心境になっている。
おそらく、自身の中で越えた何かがあったのだと思う。




http://finswild.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302829283-1
桜の旅2012

http://finswild.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303788523-1
桜の旅2013

http://aquagreen.blog.so-net.ne.jp/archive/c2304700241-1
桜の旅2014



時間がかかったけれど、わかりました。

桜とは巡りめぐる永遠性。
時間は過ぎている。しかし季節は巡りまた同じ花が咲く。
そして人は、それを確認したい。


この世の森羅万象がすべてどこかで関連していて影響を与えている。
それが華やかに、輪廻している。

生きているものは必ず死ぬ。肉体は消える。しかしすべて死ぬわけではない。
どこかに影響を与えながら生き続ける。そして生まれ変わる。

死は生であり再生であり、そのめぐり巡る中で再びどこかであなたとめぐり会えるのだ。
くりかえし、くりかえし、それが永遠に続く。
あの春の桜のように。


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上質な悲しみ [言葉]



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高倉健さんが亡くなった。
ご自身で決めた覚悟を、その覚悟を律儀なまま終えた方なのだと思った。
上質な悲しみをいつも感じさせる俳優であった。



何年か前、NHKの番組で高倉健さんの特集があった。
http://www.nhk.or.jp/professional/
11月24日(月)の朝に再放送があるそうですね。



「高倉が体調管理以上に心を砕くのが、気持ちを常に繊細で、感じやすい状態に保っておくことだ」



山本周五郎の小説の中に出てくる男たちの言葉を集めた本をいつも持ち歩いており、
厳しい境遇を耐え忍ぶ姿から勇気や覚悟をいただいていたのだそうだ。

例えばその1つ、

山本周五郎 「樅ノ木は残った」から…



火を放たれたら手で揉み消そう

石を投げられたら体で受けよう

斬られたら傷の手当てをするだけ

―どんな場合にもかれらの挑戦に応じてはならない

ある限りの力で耐え忍び、耐え抜くのだ


自分に課した生き方、孤独を貫く信念・・・

(自分の人生は何かに捧げており) 捨てているものだと思っていますよ。

と高倉健は言っていた。

自分に誓ったのですね。
自分だけがわかっていればいいのだと。







映画『鉄道員(ぽっぽや)』のワンシーンに「テネシーワルツ」が流れますね。







孤梢 [言葉]



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明け方に光が射す一本の孤梢、貴婦人











忌野清志郎「山のふもとで犬と暮らしている」


今日は一日 本を読んで暮らした

とても冷える日だった

朝からドアを閉めたままの

あたたかい部屋の中

おまえはストーブの前にのびていた

アクビしかしなかった


一人ぼっち 一人ぼっち

雑種の一人ぼっち

一人ぼっち 一人ぼっち

シッポをたれたままの 一人ぼっち

一人ぼっち 一人ぼっち


心配事は何もない

おまえにだけは

心配事は何もない

おまえにだけは

心配事は何もない

おまえにだけは

おまえは特別なのさ


今日は一日 本を読んで暮らした

とても冷える日だった


おやすみ もう寝よう

明日は山の中 駆け回るんだ




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人生の出逢いの意味 [言葉]



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谷川岳 一ノ倉沢衝立岩


垂直の壁だ。
この断崖絶壁をはじめて目にする者は、まともな言葉はまず出ないはずだ。
一般的な人間の想像力のキャパシティをこの岩場は遥かに超えているのだ。




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クリックで拡大します)




若い頃に谷川岳に青春を懸けていた方がいた。
この岩場を登っていた。
「一番好きな山はやっぱり谷川岳」と仰っていたと奥さまから聞いたことがある。
その方は、結婚をするためにここの登攀はきっぱりやめたそうだ。
50何年前の話になるのだと思う。
谷川岳とはそういう山だ。




私はご夫婦と不思議なご縁で知り合い、その後何かとお付き合いさせていただきだいぶ経つ。
ご主人は剣道家であり、奥さまは茶人である。
考えれば考えるほど誠にもって不思議なご縁である。
私の人生の中において決して欠かせない方々だ。



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今年の夏の終わりころ、奥さまより帽子が届いた。
お手紙が添えてあり、「主人の帽子です カズさんに持っていていただけたら・・・」というようなことが書かれてあった。

これは形見の品である。
なぜこの帽子だったのかというのは、ご夫妻と私だけが知っている。
そして、「何か辛いことがあったら、あの言葉を思い出して・・・」というメッセージであった。




4年前のちょうど11月、私はご主人からある言葉の引用をいただいている。



春の山には希望と喜びがある。

とある枯れ草の上にザックを置いて、梢越しに白い雪の峯をのぞむ時、

心の底から生存の喜びが突き上げてくる。

・・・あの岩場はうまく越せるだろうか、あの尾根の雪庇は落ちているだろうか・・・


久し振りに向かう山路に一脈ほのかな不安がないでもないが、

鋲靴の刻む一歩一歩は何か物珍しく、

胸に希望の灯を搔き立てる。

春の山には希望と喜びがある。





ご主人のお好きだったという山岳写真家 田淵行雄氏の「春の山」からの一節だ。

11月の秋の真っ只中に、遅い春の詩だ。
秋に雪解けの春を謳う希望の詩を送ってくださったのには理由がある。
当時の私のことをおもんばかって送ってくださったものだ。



ご夫妻とのお付き合いは季節と草花を通してのものが多い。
しかしこれは日本の四季の移ろいを通して、それに自分のそのときの心を投影して、人が生きていくという事を実はずっとお話していたのだった。

表面上の上っ面のところではなく、精神の深いところで形而上的な価値について、人のやさしさや美しさというものについて、お互いが実はずっとお話していたのだなと思ったし、(若輩な私が言うのもおかしな話ですが)それができた間柄だった。
不思議な縁が不思議な間柄で続いていたのは、きっとそれが理由だ。






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(クリックで拡大します)


ご主人さまの病のことは1年前にうかがっており、闘病中のご主人と闘病を支える奥さまにどうか穏やかに過ごしていただけたらと思っていた。
どうすればいいのかと考えたが、やはり、ただ、四季の移ろいを届けることしかできなかった。
そしてそれだけできっと想いは届くだろうという想いも強くあった。



闘病について奥さまより少しだけ伺った。
最期まで形而上のところにいたご夫妻だったのだなと思った。




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ある日の雪解けに気高く咲くセツブンソウの思い出とともに。










価値 [水辺にて]



「竹取物語」は誰もが知っている。


高畑監督は考えたそうだ。
竹取物語は短い話だが、かぐや姫はなぜこの地にやってきたのか?
そしてこの地にいる間、いったい何をして、いったい何を感じ、何を考えていたのだろうか?

それを掘り下げて考えて行けば映画になる。
そして1つの映画になった。


高畑さんが考えて提示してくれたこの映画を、観客として、一人一人がさらに掘り下げようと考えていけるようなとてつもないお話になっています。
私はずっと考えていますがいまだによくわかっていません。
この感覚にずっと浸っていたいというのも強い。これは哲学の温泉か?

最近思うのはこの映画が好きな人とはいい友だちになれるだろうなぁということ(笑)。




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あの祝いの宴の席から、なぜ、かぐや姫は夜の闇の中に駆けだしたのか。
物凄いインパクトのあるシーンだ。


「高貴な暮らし」という虚飾まみれの世界にどうにも馴染めず、
表面上だけ取り繕う醜い人間たちから「物として扱われている」侮辱に対して、
我慢も限界、貝合わせの貝を真っ二つに折り、怒りのままに屋敷を飛び出した。


夜の都大路を駆け抜ける。
高貴な姫君の象徴である十二単を脱ぎ捨てながら。
走る走る走る。
彼女は何から逃げているのか。


里を抜け、走りに走り、自然と足が向かう方向は幼いころに自分が育った懐かしい山里だ。
走って疲れ果てたころには「どうにもならない」という悲しみも入ってくる。
(画面には必ず月があり、静かにかぐや姫を見ているのも対照的で印象的だ)


あのシーンは夢だったのか現だったのか、月の世界が見せた幻覚なのか。
よくわからないが、とにかく、彼女は嘘だらけの醜い虚構世界から逃げ出したかったのだ。
立ち回りだけがうまく、高みから下を見ながら悦に入っている精神の堕落した浅ましい内容空疎な者たちとは関わっていたくはないということだったのでしょう。

しかしそれが人間というものの集まりなのですね。




人間というものは昔からさっぱり変わっていないのでしょう。
科学技術が発達し、情報化社会だのグローバルだの言ったところで、それを使う人間というのは変わっていない。
大昔のギリシャの哲学はすでに今の時代をお見通しなわけでして。



大事なのはそこからです。
生きていくうえで本当に大切な価値とは一体何でしょう。
時代や社会が変わろうが、全く変わらない本当の価値とは。


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自分が自分になることです。
「これから、より善く生きて行こうという精神の状態」であることでしかないのでしょう。
(そこには内省が当然含まれる)





かぐや姫の物語のはなし【加筆さらに加筆】 [言葉]





「必ずしも月と直接関係のある話だとは思っていないんですよ。
月かどうかは別として、どこかから人が来るということに関心があります。

羽衣伝説も同じで、天女は天から来ることになっていますが、
もしかしたら、全く別のところからやって来て、
人間と関係を結んで、あるいは結び損ねて、また帰ってゆく話だと考えた。

それは結局は自分たちも同じで、私たちもどこか遠くから来たのかもしれない。
この世で過ごして、またどこかへ帰ってゆくのかもしれない」

ー高畑勲


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公開からまもなく1年が経ち、DVDが12月に出るそうですね。
私はこれを映画館に4回観に行きました。
いろいろ考えるところがありました。


『人と、人間社会とは何だろう。そしてそこで生きている私』
ということについて描かれている作品だと思うのですが、未だによくわかっておりません。


人間というものの度し難さとともに、
だからこそ美しく、儚く、悲しく、
小さいけれど強く燃えている炎のような荘厳なものもきっとあるのではないか?
という「問いかけ」、そしてそこからの広がりを高畑監督は言っているのでしょうか。


傑作だと思いますので、機会がありましたらこの映画の言わんとしていることを考えていただけたらと思います。



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人の最大の楽しみとは、それは、人を見ることなのでしょう。
古典の中にそれを求めた高畑監督。

映画に限らずですが、主に芸術や作品とは人が人という存在をそこに見て、考えていくことなのだと思います。
人間というものを深層で把握しようという試みでしょう。



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早春の冬枯れの冷たい山の中で、このアカヤシオほど生命を感じさせる花はない。
今は雪に埋もれながら静かに力を蓄えていることでしょう。




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まもなく公開。
ジブリの秋の新作は高畑監督。
予告編と主題歌しか公にはされていませんが、ミステリアスで楽しみですね。


副題に「姫の犯した罪と罰。」とある。
竹取物語のかぐや姫は、故郷である月で、ある罪を犯し、その罪を償う為にこの地にやってきたという。



姫は何の罪を犯したのか。そしてなぜその罪を犯したのか。
一体なぜここにやってくることになったのか。
ここで求婚をすべて断った理由は?なぜ?
そして姫は罪を償っている期間に何をし、何を考えていたのか。
そして月に帰っていく。なぜ?



「月の国」というのは間違いなく死の国のことでしょう。
人の業について?前世の記憶?生きるということ?、かな?
この映画の意味は一体なんだろう。
ぜひ映画館で観てじっくり考えてみたい。







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以下、加筆

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ジブリの「かぐや姫の~」を観てきた。


これは映画評論ではありません。
映画を観て感じたことをそのまま、まとまりなく書くものです。




公開前からとても気になる作品だった。
単なる竹取物語ではないことはわかっていたし、何か感じ取れればいいなという思いが強かった。
それは今自分が考えていることへの答えのヒントがあるような気がしたからだ。




この作品は古典の竹取物語をほぼ忠実にアニメーションで描いているのだが、かぐや姫という一人の女性の心理を通して、人が生きていくこととは何だろうということを考えているのだと感じた。

これは「竹取物語」という話を借りて高畑さんが言いたいことなのでしょう。
単純であり難解な作品です。




かぐや姫は月からこの地にやってきた。
竹取物語での「月」とは完全の象徴であり、その清浄の地には悩みも苦しみもない。
月にはプラスもなければマイナスもない。
なにもないことが永遠と続く。
かぐや姫を最後に迎えに来る月の使者たちには何の表情も感情もないのも印象的。

月はThe Sound of Silenceなのである。
Silenceとは沈黙とか静かとかいう軽い意味ではない。
「音が無い」という意味である。
【音が無い音】という強烈な世界のことである。
月とはやはり死の国のことなのだと思う。





月という清浄な地から見たら、この地は穢れた地。
その穢れた地にかぐや姫は下ろされる。

そこで起こる様々なことをかぐや姫は身をもって経験しなければならない。
完璧な国から来た者がこの地で穢れた愚かしいことを経験する。
そして何かを感じ、考え、悩み、苦しむ。


人間社会で。







映画を観ながらなぜか思い出したのは夏目漱石。
「草枕」の冒頭で漱石は、向こう三軒両隣でちらちらしている人間と人間社会というものを描いている。
漱石はこの社会というものをずっと考えていた。
滑稽さや虚飾性も含めた摩訶不思議な人間社会を、それはそれは真面目に、神経衰弱になるほどに考え抜いていた。
あの天才が考えに考え抜いていたことだ。


漱石は、「人は、この世で幸せになれることなんてことは無い」とわかっていて作品を描いた。
そして漱石の結論は、「しかし、人はこの世で生きなければならないのだ」ということ。



漱石は草枕で言う。
この世が住みにくいのであれば、人でなしの国に越すしかないだろう。
そしてその人でなしの国は今の社会よりももっときついだろう、と。
この世を作っているのは神でもなければ鬼でもない。
その辺でよく見かける単なる人である。





坊っちゃん。
まったく穢れのない一人の江戸っ子の青年が、松山の学校に教員として行く。
そこは社会の小さな縮図であり、一本気な坊っちゃんは赤シャツや野だいこたち「ニセモノ」たちと勇ましく奮闘する。
結局最後にその「不浄の地」から坊っちゃんは離れるのだが、実は根っこが竹取物語と同じ。
三四郎もそう。
熊本の田舎から近代国家の首都東京にやってくる大学生の三四郎から感じることも実は背景が同じである。





「この世では幸せなんてものは幻想である」
と、漱石はよく知っている。
知り抜いているのだ。
しかしそれではあまりにも寂しいと漱石は思ったのだろう。

この世を捨てることはできないのであればどうすればいいのか。
こころ・・・ 感性、感受性を磨き育てていくこと。
自分に正直に、自分に厳しく、私心なく、たくましく生きていくこと。
これはと思った人のために生きること。助け合い支えあうこと。
それらが最も清々しく、生を実感することになるのだと、どこかで気がついたのではないか。


話がだいぶ逸れましたが、漱石もかぐや姫も、痛ましくもあり滑稽でもある人間社会で苦悩し、そこに荘厳なものを探していたのは同じこと。

精神の最も深いところで生きることの価値を探していたのだ。






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山桜


かぐや姫の~には「わらべ唄」が出てくる。とても意味深な歌詞である。
そしてその歌詞の通りに、草、木、花、虫、鳥、獣、人。
そして春夏秋冬の連続性、生命のサイクルが、美しくアニメーションや音声で描かれている。
動き続ける景色である。
私がいつも森や野山で見ているものだ。



梅の花が少しづつほころび始めると春が近い。
木蓮が咲き春がやってくる。山桜が咲き、草木が芽吹き、獣や虫たちが活発になってくる。
夏が来て、実りの秋が来る。紅葉する山、北風は木の葉を散らし、冬が来る。
雪が積もって白い世界が全てを覆うが、木々はもう次世代の芽の準備に入っている。
その新しい生命は冬のあいだの風雪にじっと耐えて春の訪れを待っている。



めぐり巡る季節の中で人は文化を作り暮らしていく。
そこには歓びがあり、楽しみがある。
怒りがあり、憎しみがあり、苦しみがあり、迷いがあり、哀しみがある。
そしてそれらは様々な矛盾を包含し、機織りのように絡み合っている。


人は生き、人は死んでいく。
それが繰り返される。
過去は今へ、そして今は未来に、繋がっている。

人が暮らすというのはそれである。



月にそれはない。
なにもない永遠があるばかりである。




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副題に「姫の犯した罪と罰」とある。
これは姫を、人と置き換えられる。

かぐや姫のように、人はこの世界に無垢の姿でやってくる。
そして人間社会で生きる。
その誰もが、生きていく限りはこの世で知らず知らずに罪を犯していく。そして罪を償っていくのである。
人は悩み苦しむものであり、それをどうとらえて生きていくかなのだ。
真面目に正直に、私心なく、取り組むことだ。


人は何があろうとこの世で生きなければならない。
与えられた生命を慈しみ、生きなければならない。
あと3日の命なら、3日の自分の仕事を真剣に、力の限りするのが人である。



大切なことは正直に今を見ること。
そしてどこを見てどこに気が付きどう感じられるのかの感受性。
そうやって心というものは豊かになっていくのだろう。
悲しみの中にさえそれはある。
心が動くものというのは自分の周りの至る所に転がっているのである。
そう、塵のように。
塵を小さな幸せと感じられる人もどこかに必ずいる。必ず。

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「塵も積もれば」
日々のその小さな幸せが、いつの日か、大きな幸せになることもきっとあるだろう。
山の彼方に幸せを探しても仕方がないのだ。

平凡なこれに気が付いているかどうかはとても大事なことなのだろう。




そんなことを映画のクライマックスのころにふと考えました。
何回か嗚咽が来ましたが、周りが女性ばっかりだったので自分の手をつねったりして泣かないように頑張った。



昨夜観たばかりの映画なので頭でまとまっていません。
文章になっていないので他者に出せる代物ではありません。
しかし、映画の終盤に自分が感じたことであり、だから自分用に書いておきます。
この3年ほどの間に自分自身や身の回りで起こったこと、震災のこと、桜を見続けた旅のこと、森に通って四季と自然の移ろいを見てきたこと、そして毎日の生活を送りながら丁寧に考えようとしてきたこと、それらが一つに繋がってきたと感じている。


もう一度観に行きたいと思います。


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散った椿の花と、竹



今は昔、竹取の翁といふ者ありけり

野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり

名をば、さぬきの造(みやつこ)となむ言ひける

その竹の中に、もと光る竹なむ 一筋ありける

あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり




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かぐや姫の物語感想その2
http://aquagreen.blog.so-net.ne.jp/2013-12-23











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